石川昌孝『坐禅をすれば善き人となる』

宮崎奕保禅師108歳の生涯
NHKのドキュメンタリが元。著者はそのディレクター
・宮崎禅師:永平寺七十八世貫首/只管打座の実践者/真似に生きる/まっすぐ生きる/漢学の素養

ことば
坐禅をしているときは、何も考えない。考えないけれども、なんだか色んなものがうろうろしておる。しかし、大切なのは妄想せんことや。いわゆる前後裁断や。そのときそのとき、一息一息しかないんだ。
『念気これ病』という言葉がある。念が起こったらこれ病。念という字を見たら、今の心と書いてある。それが念だ。その念ではいかんのだ。『念気これ病』やから、何か考えたらもうそれは余分だ。そして、『念気これ病。継がざるこれ薬』という。だから、念が起きたら、体を真っ直ぐにして、一息一息、真っ直ぐに坐る。念を継がないんだ。大自然というのは、一瞬一瞬の経過だからね。しかし、それが難しい。」


坐禅ということは、真っ直ぐということや。真っ直ぐというのは、背骨を真っ直ぐ、首筋を真っ直ぐ。右にも傾かない。左にも傾かない。前にもくぐまらなければ、後ろにも反らない。いわゆる中道実相。そして、体を真っ直ぐにしたら、心も真っ直ぐになっとる。身心は一如やから。
けれども、自分だけ真っ直ぐであったらよいと言ったら、仏法ではそれは外道という。自分が真っ直ぐになったならば、環境を真っ直ぐにしなくてはならない。それが智慧だ。環境を真っ直ぐにするためには、それだけの勇気がなくてはならない。自分が真っ直ぐであったなら、人の歪んでいるのが見ておれんから、それを直してやる勇気がいる。そういう勇気がない。自分が真っ直ぐであったなら、見るもの映るもの、環境は皆、真っ直ぐにするという勇気を出さんといかん。そういう勇気が坐禅だ。」


坐禅ということは、坐る禅と書いてある。坐るから坐る禅。しかし、『正法眼蔵』という道元禅師様の教えの中には、ただ坐っておるだけが坐禅ではないとある。
禅というのは真っ直ぐであるということや。それは行いと一つになるということや。物事は二つあったら迷い。だから、ご飯を炊くときにはご飯になりきる。よそごとを考えていたら、焦げ飯になってしまう。
道元禅師様の言う坐禅ということは、すべてが皆、禅だ。禅といったら何か殊更のように思っておるが、そうではなくて、そのものと一つになっていくことが禅だから。歩いたら歩いた禅。食べたら食べた禅。しゃべったらしゃべったで、しゃべることが禅だ。坐っておるだけが禅じゃない。生活のすべてが禅。そのものと一つになるということや」


正岡子規の『病床六尺』という本には、『人間は、いつ死んでもいいと思っておったのが悟りだと思っておった。ところが、それは間違っておった。平気で生きておることが悟りやった』と書いてある。いつ死んでもいいと思っておったのが悟りやったと。ところが、いつ死んでもいいどころではない。平気で生きておることが悟りやったと。分かるか」


浜までは海女も蓑着る時雨かな


「私は日記をつけておるが、何月何日に花が咲いた。何月何日に虫が鳴いた。ほとんど違わない。規則正しい。そういうのが法だ。法にかなったのが大自然だ。法にかなっておる。
だから、自然の法則を真似て人間が暮らす。人間の欲望に従っては、迷いの世界だ。人情によって曲げたり縮めたりできないもの、人間が感情によって勝手に変えられない自然。そういう生活をして、生きておれたらいいね」