1ヶ月が経ちました。

ダイエットはじめて1ヶ月。
2kg痩せました。。。


でも、体型は変わってきたんだよ。
足が細くなったし。


まぁいろいろ試してみて、
今やってるのは朝バナナダイエットと運動。


僕は便秘がちなのですが、
便秘になるとダイエット効果が全然表れないのね。
で、朝バナナダイエットで改便をしてみた。


バナナダイエット
午前中はバナナしか食べず、水を多めに飲んで、
夜は早めにご飯食べて早めに寝るというもの。


夜早めに寝るのは難しいけど、
おかげで改便できてきた。


運動は、ジョギングと筋トレ。
今までジョギングしかしてなかったんだけど、
筋トレをし始めたら、体型が変わってきた。


昨日プロテインもゲットしちゃって、えらいはまってきた気が。
別に筋肉マンになりたいわけじゃないのに、
間違って動物系のプロテインを買ってしまったし・・・。
3ヶ月後にはマッチョになってたりして。。。


レコーディングは続けているけど
レコーディングするだけ。


昨日はマックのクォーターパウンダー食ったし。。。


今月は、低脂肪高タンパク摂取を心がけよっと。
で、3kg痩せたい。

 石川昌孝『坐禅をすれば善き人となる』

宮崎奕保禅師108歳の生涯
NHKのドキュメンタリが元。著者はそのディレクター
・宮崎禅師:永平寺七十八世貫首/只管打座の実践者/真似に生きる/まっすぐ生きる/漢学の素養

ことば
坐禅をしているときは、何も考えない。考えないけれども、なんだか色んなものがうろうろしておる。しかし、大切なのは妄想せんことや。いわゆる前後裁断や。そのときそのとき、一息一息しかないんだ。
『念気これ病』という言葉がある。念が起こったらこれ病。念という字を見たら、今の心と書いてある。それが念だ。その念ではいかんのだ。『念気これ病』やから、何か考えたらもうそれは余分だ。そして、『念気これ病。継がざるこれ薬』という。だから、念が起きたら、体を真っ直ぐにして、一息一息、真っ直ぐに坐る。念を継がないんだ。大自然というのは、一瞬一瞬の経過だからね。しかし、それが難しい。」


坐禅ということは、真っ直ぐということや。真っ直ぐというのは、背骨を真っ直ぐ、首筋を真っ直ぐ。右にも傾かない。左にも傾かない。前にもくぐまらなければ、後ろにも反らない。いわゆる中道実相。そして、体を真っ直ぐにしたら、心も真っ直ぐになっとる。身心は一如やから。
けれども、自分だけ真っ直ぐであったらよいと言ったら、仏法ではそれは外道という。自分が真っ直ぐになったならば、環境を真っ直ぐにしなくてはならない。それが智慧だ。環境を真っ直ぐにするためには、それだけの勇気がなくてはならない。自分が真っ直ぐであったなら、人の歪んでいるのが見ておれんから、それを直してやる勇気がいる。そういう勇気がない。自分が真っ直ぐであったなら、見るもの映るもの、環境は皆、真っ直ぐにするという勇気を出さんといかん。そういう勇気が坐禅だ。」


坐禅ということは、坐る禅と書いてある。坐るから坐る禅。しかし、『正法眼蔵』という道元禅師様の教えの中には、ただ坐っておるだけが坐禅ではないとある。
禅というのは真っ直ぐであるということや。それは行いと一つになるということや。物事は二つあったら迷い。だから、ご飯を炊くときにはご飯になりきる。よそごとを考えていたら、焦げ飯になってしまう。
道元禅師様の言う坐禅ということは、すべてが皆、禅だ。禅といったら何か殊更のように思っておるが、そうではなくて、そのものと一つになっていくことが禅だから。歩いたら歩いた禅。食べたら食べた禅。しゃべったらしゃべったで、しゃべることが禅だ。坐っておるだけが禅じゃない。生活のすべてが禅。そのものと一つになるということや」


正岡子規の『病床六尺』という本には、『人間は、いつ死んでもいいと思っておったのが悟りだと思っておった。ところが、それは間違っておった。平気で生きておることが悟りやった』と書いてある。いつ死んでもいいと思っておったのが悟りやったと。ところが、いつ死んでもいいどころではない。平気で生きておることが悟りやったと。分かるか」


浜までは海女も蓑着る時雨かな


「私は日記をつけておるが、何月何日に花が咲いた。何月何日に虫が鳴いた。ほとんど違わない。規則正しい。そういうのが法だ。法にかなったのが大自然だ。法にかなっておる。
だから、自然の法則を真似て人間が暮らす。人間の欲望に従っては、迷いの世界だ。人情によって曲げたり縮めたりできないもの、人間が感情によって勝手に変えられない自然。そういう生活をして、生きておれたらいいね」

 事始め

先月で32歳になった。
いろいろと経験も積んできたと思うけど、体重も増えた。
なんと、現在75キロ。やばい。。。マジやばい。


池中玄太は80キロだったけど、僕の中で彼は間違いなくデブのカテゴリーに属されていた。
そのカテゴリー“デブ”まであと一歩。
いや、こないだ同僚にコブタと言われたし、もう片足突っ込んでるといって過言ではない。
あと半歩?もうデブ?まぁいいや。


今まではなんとなく痩せた方がA.P.C.とかバリバレ(もうないけど)みたいな
シュッとしたフランス服が着れていいかなぁーって思ってたくらいで
本気でダイエットしようとは思ってなかった。。。


今回はマジです。
ダイエットです。


3年半前に禁煙をした。
相当つらかったけど、できたことが意外と自信になっていたりして
禁煙もダイエットも変わらないんじゃないかと思ってたりする。。。甘い?


禁煙は本(ご存知『禁煙セラピー』)を読んでできたので
ダイエットもまずは本を読むことから始めることにした。


本屋にいくとダイエット本コーナーは実に充実している。
アメリカでは過去70年間で、26,000種のダイエット法が発表されたらしい。
そりゃ充実しているわけだ。


ただ、ターゲットが女性なせいか、ダイエットコーナーは全体がピンク色に輝いていて、
なかなか男子は近寄りがたい。
装丁がだいたいピンクなのね。
ヨガとか料理本とか働く女性本とかとご近所なので、
まわりには女子も多いし。。。


結局、その場にいづらくなって、場所を新書コーナーに移すことにした。
そこで見つけたのが、
岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』


こういう本を手に取ってしまうのは、デブの証だと思いつつ、
中身をパラッと読んでみた。


最初に見た目主義社会の到来といことで、
これまでの学歴主義はなくなって、キャラ重視の社会になってきたことが書かれている。
新幹線や野球場でビールなんかが売られてるけど、
こういうとこの売り上げも売り子の見た目で変わっているんだと。


まぁ確かに会社でも、セクシー系の女子が仕事で高いパフォーマンスをしても
なかなか評価されなかったりするしな。
印象によって評価が変わってしまうのは仕方ないのかも。。。


ちなみに、風とロックの箭内さんは自分が金髪なのは
金髪だと人から普通以上の仕事を要求されるから、だと言ってた。
僕もそんな風に言ってみたいものです。


さて、本書はレコーディングダイエットといって、口に入れたものをすべて
メモするダイエット法を紹介している。
とにかく食べたものをメモして、自分がどんな食生活を送っているのか明らかにする。
それからカロリー計算をするようにして、カロリー摂取を制御していく。
結局はカロリー制限なんだけど、メモすることに楽しみを見いだして
それにヒモづく体の変化を楽しもうというものだ。


書き忘れてたけど、僕はとても意思が弱い。
たぶん普通の人よりもう少し弱いんじゃないかと思う。
楽しめなくっちゃ一生は続けられそうもない。
このブログだって明日も書くかわからないし。


さっき書いたけど、アメリカでは26,000種のダイエット法が開発されているという。
そんなにダイエット法ができたのは、ダイエットは自分がいかにして楽に一生続けられるかが問題で
どんなダイエット法が自分に合うか探すことが重要だからだと思った。


とりあえずレコーディングダイエットをやってみることにした。
意思の弱い僕がどこまでできるかわからないけど、
メモりたい欲望はあるからいけるような気もする。


■今日食べたもの
12時 カレーパンとチョコパンと豆乳
15時 豆乳ジュース(ほうれん草とグレープフルーツとバナナ入り)
20時 ビール350ml 手羽とジャガイモの黒酢煮 ブロッコリ ほうれん草とベーコン炒め チョコ2個

チョコとほうれん草がダブッてる。。。
豆乳ジュースは本に書いてあったもの。
これを飲むと食べ過ぎを抑制してくれるらしい。

■今日の体重
74.8キロ

■今日のエクササイズ
60min ウォーキング

『アメリカ 村上春樹と江藤淳』坪内祐三

草なぎさんが面白いよというので読んでみた。あっという間に読み終わった。印象としては、ドキュメンタリーに近い。時代の肌理を的確に表現し、作者の視線が確かに注がれる。作者の坪内さんてのは面白れぇなと思った。なんとなく、森達也みたい。
僕もアメリカを想像し、実際アメリカで生活して幻滅した口だから、村上春樹江藤淳の葛藤は少しわかるような気がする。フォリイですよ、フォリイ。

アメリカ 村上春樹と江藤淳

アメリカ 村上春樹と江藤淳

人が死んだレールの上を歩くのは嫌だ
大宮駅で電車を乗り換えようとしたとき、ちょうど人身事故が起きたことがわかった。僕は疲れていたし、それまで順調にきていた分、車谷長吉ばりに「くそ」と思うた。アナウンスは現場検証が終わり次第の発車だと強調している。改札付近は人だかりができ、自分が不運だとか早く現場検証が終わらないかとかダークな言葉に包まれていた。突然、吐き気が襲ってきた。人が電車とレールに挟まれている映像がフラッシュバックした。
人は空白を埋めることで人になる
長い車中、BRUTUSを何度も読み返していた。なかなか雑誌をこうもじっくり読む機会はないだろう。しかし、他に時間を埋める方法が見つからなかった。「言葉の力」という特集だった。僕はどんな言葉に本当に感じ入っているのか気になり、それを探した。このコピーが頭に残った。「ただ一度のものが、僕は好きだ」
一回かぎりの人生ではなく
家に帰ると『生物と無生物のあいだ』の著者がテレビに出ていた。それまで細胞が再生し続けるという話は聞いていたが、分子が入れ替わるとは知らなかった。分子は一年もたつと全く別の分子と入れ替わる。分子レベルで見れば、今とその1秒後が同じ人などいないのだ。テレビの人は人は分子で構成された雲のようなものだ、みたいなことを言っていた。一回かぎりの人生ではなく、「一瞬かぎりのいのち」なのだと思った。

フィジカル・アート・セオリー入門

小さな勉強会に行った。場所は渋谷アップルストア前にある教会の上。部屋は狭く、暑い。アントニオ タブッキ『供述によるとペレイラは…』にでてくる編集室のようなむっとした空間で、勉強会はスタートした。講師はカント美学や土方巽の舞踏論研究を専門とする木村覚氏。
第一回は、「イリュージョン」と「プロセス」について。たとえば絵画は何かしらの物質でできているが、多くの人はその物質だけを取り出してみることはせず、物質の集合から幻想を抱く。そうした幻想をイリュージョンとよび、絵画を構成する物質をプロセスと呼んでいる。
ダンスにおいても、このパースペクティブが60年代になって流行した。イヴォンヌ・レイナーはミニマリズムに関する著書の中で、「削除あるいは最小にすべきもの」と「それにとって代わるもの」の二軸にわけたチャートを作成した。「削除あるいは…」に属するのは、フレーズ性であったりリズム・ダイナミクス、名人芸的な動きの妙技と十分に伸展した身体で、「それにとって代わるもの」に属するのは、エネルギーの均等性と見出された動きや諸部分の均等性、タスクあるいはタスクライクな活動である。つまり、前者は前時代的なものであり、後者がそれにとって代わるべき現代的なものということを意味する。そしてそれらは、「自発的」か「タスクライク」かということができ、さらにそれがイリュージョニズムとアンチイリュージョニズムを分かつ。
とまあ、そんな調子で講義は続いた。今回の勉強会の大目標は未来のダンスを開発することだという。もっとダンサーが参加することを期待したようだが、実際には編集者がやたらと多かった。僕は勉強会に参加してみて、なんとなく未来のダンスが作れそうな気がした。